「小さなスーパーマン ガンバロン」

第7話「恐怖! ガリバー大作戦」
第9話「見たぞ! ダイヤを吐く西洋人形」

96年秋頃執筆。 初出「レインボークロス 第6号」


 本稿執筆当時、「光速エスパー(宣弘社)」をレンタルで借りて見た。制作年代は60年代、まだ、 人が宇宙に夢を馳せることが出来た時代。この頃の特撮テレビ番組に描かれていた夢の大きさに 妙に郷愁を覚えたと思う。この作品を見たことが、当時、本稿の執筆に大きく繋がったはずだ。

「光速エスパー」の放送から10年程して…もう大人は将来に夢を見なくなった。でも、子供たちには まだ夢を見る余地があったはずなのだ。だからこそ、「本気になって」子供たちに夢物語を見せようと する大人たちもいた。そんなまだ心温まる時代に少年時代を過ごせた自分は、きっと幸福な世代 なのだろう。

 そして自分がまだ8歳の頃、そういう分別ある大人が「本気になって」、子供たちに送ったメッセージ があった。

「小さなスーパーマン ガンバロン」

 くしくも「光速エスパー」と同じく少年ヒーローを主人公とする、 ファンタジックなタイトルを冠した番組だ。

 96年頃、この頃知り合いになった方から「ガンバロン」のビデオを3話分ダビングしていただける 機会に恵まれた。ちなみに収録されていたのは7話から9話までの3エピソード。前述にて 「大人が”本気になって”子供たちに送ったメッセージ」と称したが、スタッフ編成だけでもその力の 入れようは見て取れるだろう。

 監督には大御所、東条昭平が名を連ね、脚本陣にはご存知上原正三に長坂秀佳が参加。共に脂の 乗り切っていた時期ということもあって、本稿に挙げたエピソードも実に見応えあるものばかりだ。

 町の子供新聞、少年タイムスの記者である主人公、天道輝はある日、執事のムッシュ(黒部進)から、 今は離れて海外で暮らしている、天才科学者である父からのプレゼント、バロンパーツを託される。 そしてバロンパーツを装着し、ガンバロンとなった輝はムッシュ、サポートコンピューター・ゴエモンと 共に悪の科学者、ワルワル博士(天本英世)の変身する怪人ドワルキン(声・飯塚昭三)と戦いを 繰り広げるのだ。

「恐怖! ガリバー大作戦」は少年タイムス記者のひとり、ケンダマの弟、ジロウにスポットが当てられる。 ジロウは常々兄貴を困らせるトラブルメーカーであり、今度はよりによって少年タイムスの記者に なりたいと言い出した。反対するケンダマを説得し、輝の、自分が面倒を見るという条件で晴れて 記者見習いとなったジロウだが、兄、ケンダマの恐れたとおり取材の行く先々でトラブルを引き起こし、 同行する輝を困らせる。

 そんな折、通りがかった公園で紙芝居の「ガリバー旅行記」を見て、自分が子供の頃ガリバーみたいに 大きくなりたかったという夢を思い出したワルワル博士、なんと本当に巨大化光線なんてのを発明し、 ガリバーのコスプレしたまま街中で巨大化してしまった(ガリバーのコスプレした天本英世が、 怪獣が暴れるようなセットではしゃぎ回る脳みそボーン! な図)!

 まさに小人の国に降り立ったがごとく、自分は王様だーっ! と街で大暴れするガリバー(あまもと)を 抑えるべく、ジロウを残してガンバロンに変身する輝。ガンバロンの活躍でガリバーは追い払われたものの、 輝の「ここを動くんじゃないぞ!」という言葉を無視して危険な取材をしたジロウが怪我を負ってしまった。 当然、その場にいなかったということで仲間たちから責められる輝。ジロウを少年タイムスに入れるのを 熱心に勧めたのは輝本人なのだ。病床で眠るジロウの傍らで、お前の責任だ! と輝をなじるケンダマ。 そして問題は、輝の記者としての進退にまで発展してしまう…。

 ルール、信頼、約束。子供番組がさも上っ面に「大切だよ」と唱えてきた事柄だ。だがその大切さを 唱える前に、もっと言われなければならない事柄がある。その大切さゆえの「厳しさ」だ。

 今を去ること二十数年前、番組の本放送を見ていて特に印象的だったのが、ひたすら主人公が 辛い目にあうという点だった。特にこのシチュエーションは、輝がガンバロンであるがゆえに(こと 上記のようなシチュエーションのために…)起きてしまうことが多かったと思う。この自分がよかれと 思っての行動に対し、「僕はあの時ガンバロンにならなければいけなかった」と思いつつも責任を 感じる輝。

 愚考すれば、製作スタッフが主人公、輝に託したのは決して「努力・友情・勝利」だのの、 さもありなんな子供騙しの上っ面な文句ではない。等身大の、ひとりの少年が直面する現実の厳しさと、 「それを乗り越えていくために必要なこと」ではないか?

 友情の大切さとかを謳っても、その友情だのの故に発生するトラブル、それを乗り越える主人公の ひたむきな姿…なんてのは、近年不条理ギャグとか「大人への背伸び」にまみれてしまった子供向け シリーズではとんと見られなくなってしまった気がする。この辺が「ガンバロン」と、 他の子供向けシリーズの一線を画すところだろう(なにげに浦沢義雄あたりの功罪をひしひしと 感じてしまうが…)。

   そんな主人公に対する厳しさが、さらに重くのしかかるのが第9話「見たぞ! ダイヤを吐く西洋人形」 だ。

 陽光の元住宅地をひとり歩く西洋人形…。なんともシュールな図だが、この人形が歩きながら吐き出す 宝石のネックレスがクセ物だった。このネックレスにはドワルキンからの指令電波によって、たちどころに 付けた者の首を絞める(!)機能が備わっており、これを面白がって付けてしまったが最後、ドワルキンの 言いなりになるしかない。また、輝がガンバロンであることは番組初期の段階でドワルキンに知られて しまっており、それが更なる辛辣さを輝に浴びせ掛ける。

 かくしてネックレスによってドワルキンに脅迫され、万引を強要された子供は「輝に命令されてやった」 と警察で証言し、またも窮地に立たされる輝。輝を兄とも慕い、その無実を晴らそうとする妹分、チーコ もこのネックレスの罠に嵌り、なおも輝はチーコという人質まで取られてしまう…。

 やはり輝の疑いを晴らそうとしていた少年タイムスの仲間にまで暴力を揮わざるを得なくなってしまう 輝。しかもドワルキンは、明日の朝8時に警察署長を銃殺しろとまで脅迫する。思い悩む輝に、 コンピューター・ゴエモンは告げる。「そのくらいのことで泣き言を言うな、輝。…クヨクヨ考えている だけでは何も解決しないぞ。やれるだけのことはやってみるのだ」。

 チーコのネックレスは、外そうとするとドワルキンからの指令電波によって首を絞めてしまう。そのこと を訴える輝。そしてゴエモンは、問題解決の「ヒント」のみを輝に示唆する。

 解決のための「解答」でも「方法」でもない、「ヒント」なのである。

 ゴエモンはサポートコンピューターという立場にありながら、実質的には輝が問題に直面したとき、 こうして輝を助けるよりその尻を叩くことが度々見受けられる。それは、子供が成長する上で必要な こと…マニュアル頼りではない、「自分の力で解決する」ということを教えているからではないか。

 本作の脚本を担当したひとり、上原正三は後のインタビューでこう語っている。あの頃は 自分の子供もこういう番組を熱心に見る年頃であり、自分の子供に見せる作品だからこそ真剣に作ったと。 …当時、同じくこういうものを熱心に見ていた世代として、なんとも胸が熱くなる話ではないか。

 ガンバロンというヒーローのネーミングさえも、決して子供受けの洒落などではない、その大人たちの 真摯な願いが込められているネーミングではないか?

「ガンバロン」の製作スタッフは、前述のとおりファンに名の知れた一流どころだ。「ちゃんとした 大人が、本気で子供に見せるものを作った」ということの凄さと暖かさ…「ガンバロン」本編には いい意味でそんな印象が漂う。

 そして、この「ガンバロン」から更に10年、20年過ぎて…もう子供すら未来に夢を見なくなった。 大人たちも、もう子供に媚を売るような、やけに大人びた視点で茶を濁すものしか作らなくなった。 「今の子供は大人びているから」という時代ならもうそれに文句は言うまい。ただ、たしかに見ていて 無邪気に楽しめる作品も必要だが、それ以前に「大人が子供に、本当に語っておくべき大切さと厳しさ ――責任」。それを語る作品こそ、いま一番子供たちに語るべき物語ではないか?

 時代の流れに逆らうのは馬鹿のやることかもしれない。それでも、本心から子供に送るメッセージを …「男の子なら正しく強く(主題歌より)」と、本気で子供に訴えることの出来る大人が、クリエイター 側に現れることを強く望む。


 最後に、筆者自身の本放送当時の「ガンバロン」の思い出をひとつ…。再見した3話分とは別の エピソードだが、ラスト、事件も解決してめでたしめでたしという状況の中、あのとき現場にいなかった 輝こそがガンバロンでは? という疑いが仲間たちに浮上する。返答に困る輝。と、そのとき上空を 飛んでいくガンバロンのメカ、トブーン。そしてコクピットから手を振るガンバロン。 喜ぶ子供たちだが、飛び去っていくトブーンのコクピット、ガンバロンがマスクを取ると、 その下から現れたのは…なんとムッシュ! あ、あの下膨れのガンバロンの顔の下から黒部進の ヤクザ顔が出てくるんだぜ! なんとも微笑ましい展開だ(笑)。それをしても…子供たちの笑顔で 「つづく」。爽やかなラストシーンではないか。
(改稿 2002,9,19)

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